2022
新年あけましておめでとうございます!
このブログがかなりおろそかになっていました、なぜか。
Facebookで遊んでた、何か集中できなかった、自分自身がどこかにいってしまってた。
こんな、ブログを観る人などたいしていないだろう、、、。とか
兎に角、昨年は大きな変化が自己の中で、絵画感においてですが。
孫が生まれ、初めて身内の似顔絵を描いたことにあります。
思考の中では様々な考察をしていたこともあるでしょうが、実際の生活での経験に勝るものはありません。
nattu(孫) 墨水画 由三蔵 |
春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり ・・・・・道元 ・・・・・ ようこそ!由三蔵の世界へ。 下に表示されている画像は、過去ひと月のアクセス・トップ10のブログです。(ブログ掲載記事の画像はクリックすると拡大されます)
恣意的絵画小論
絵画とは何かという問にいずれは自分なりの決着をつけたい。
遠い過去の記憶の中に一枚の美しい絵があります。それは五十年前頃に友人の絵画サークルの展示会で見た小さな六号位の油絵で、キャンバスに塗り残しの目立った花瓶に生けた花を描いたものでした。この記憶が、いつ何がきっかけで思い起こされたのか・・・想像力をかきたてれば、展示会の開催された場所がパン屋さんの二階であったことを考えてみると。ある朝、トーストを焼く匂い、あるいは何処かの街のベーカリーの前とか、無意志的記憶の立ち現れは不思議です。「このような感覚によって偶然もたらされる記憶こそ真実を再現するものだ・・」と、かの「失われた時を求めての」の著者、マルセル・プルーストは言っています。
この絵の記憶は五十歳を過ぎたころから頻繁に想起されるようになりました。そして同じ時期にセザンヌの良さが分かり始め、また水墨をはじめたのもそのころだったのは偶然でしょうか・・・。
手は盲目的であるがゆえに触れることができ、形をなさないものを作り、道具の物質性と関わりあうことができます。素描(デッサン)にはこの盲目性が入り込む、その痕跡の延長に墨水画があるような気がします。
あるモチーフによって身体が知覚したイメージを、知覚される側へ投げ返す、つまり身体の外側へ置き直す・・・・。描くという行為を分析するとそういうことかと思惟します。
わたしの絵の前に立って観る人は、たとえそこに描かれたものが「私」を通じて知覚された絵であっても、観る人の視点は、その人自身の「私」感覚でしかない、というか観るとは様々な意識の立ち現れからなり、何かを指し示す絵は図像だといえます。そして、絵画における表現というのは直示的根底をなす図像ではなく、把握不可能な「何ものか」が実在感をもって現れてくる未規定性のハタラキにあると考えています。
良いこと良く無ない事、兎に角色々と大変な一年でした。 これから時代はどのように変化していくのか、、、、、民主主義の上で成り立っている自由。それが本当の自由でないことは誰もが気付いていることだろう。だからといって戦争下にあった不自由と比べればどれほど自由かしれない。自分がしたくもないことをやらされる、大半の労働はそのようで、生活のためと。労働しなくても生活できる方々も沢山いる。富裕層、あるいは労働出来ない一部の人達、年金族、などなど、、、、。
今度のコロナ渦で今まで見えていなかったことが数多く表に現れてきたように感じる。それは先の未来に繋がっていくであろう「何か」をどのように個人個人が考察するか、そしてどのような形態の社会になっていくのかを予想、想像せざるを得ないけれども、まず自分の足元をしっかり見つめ直そうと思います。
今、描ける!ということ、この幸せを実感します。